あとがき

 

私にとってやまとうたは、その出逢いから今に至るまで音楽そのものでした。

私が初めて短歌を意識して聴いたのは、八年ほど前のこと。たまたまラジオで朗読されていたのが若山牧水の「みなかみ紀行」でした。それは散文の朗読が中心で、読まれた歌は十首くらい。その歌も今となっては記憶にありませんが、自然の情景をこんなふうに短歌で表現できるんだ、というささやかな驚きはよく憶えています。

それから半年ほどして、やはり偶然つけていたラジオから流れてきたのが、万葉集の簡単な解説でした。その時聴いた歌ももう判然としませんが、初めに聴いたのはたしか長歌だったと思います。当然意味もほとんど解らなかったのですが、第一印象は、とにかく美しい。言葉を並べただけでこれほど強く豊かな響きが生み出せるのか、と何か新しい色の光を見たような思いでした。

その後、体調の悪化で本をほとんど読めなくなるまでの数か月の間に触れることのできた万葉歌は二百首ほどでしょうか(そのほとんどは記憶していますが)。それからは、苦しい日々の明け暮れにそれらの歌を暗唱するようになりました。私がこれまでに接してきた歌はほぼこれだけで、近現代の短歌はもちろん(片手の指も余るくらい)、八代集の歌すらほとんど知りません。

そんな古文の「こ」の字も和歌の「わ」の字も知らなかった私が、万葉集という触媒を得たとはいえ歌を詠むようになった、その化学反応にはいくつかの因子(わけ)があります。

そのひとつとしては、私の置かれた社会的・肉体的・精神的な苦境が大きな燃料となっています。

もうひとつ、もっと直接的な火種として、私を幾重にも取り巻く断絶という名の、言葉が言葉として意味をなさない世界があります。そのような世界においては、社会的・日常的なことばよりも和歌のような韻文、それも万葉歌のような呪詞性・音楽性の高いことばの方が、ずっと現実的で意味があるのです。

三つめの要因は、体調面の制約からもう十年ほどの間、大好きな(例えばヴィオールやリュートの古楽や、クーバの古い歌謡曲(ビエハ・トローバ)などの音楽を一切聴けていないことです。音から隔離された監獄生活がければ、私の中でことばがこれほど音楽的に響いたかどうか分かりません。

 

私の歌は、作ろうとして作ったものではありません。二十四時間を身体のケアとリハビリに充てる毎日、まとまって物事を考える余白もほとんど無いなかで、目の前の風景に、或いはかつて見た情景に、ことばが不意に像を結ぶのです。

そのようにしてできた歌が十首ほどになった頃、ふと思いました。自然を詠んだこれらの歌は、自然と自分の魂を結ぶ橋になりうるのではないか、と。つまり、こうして自然への思いを歌という形にしておけば、死後の自分の魂が迷うことなく山川のもとへ行けるのではないか、と。

それから活字にすることもなく歌は増えて(いつでも自由に文字を書くことが難しいために)、四十首ほど、頭の中だけで全てを記憶するのが限界に近づいた頃に、また思いました。もし明日私が死んだら、この歌も死ぬ。私も私の歌も永遠に居なかったことになってしまう、と。そのことを思うと胸が締めつけられるようで、身を削ってでもこの歌を遺さなければ、という抗いがたい声が私を責め立てるのです。

さあ、それからが大変です。頭の中にできた歌の、五音なり七音なりをノートに書きなぐるのが数日後。それを一~数ヶ月に一度、体調を著しく悪化させながら数十首づつ活字にしていきます。全ての歌をとりあえず活字にできたのは、編集を始めてから二年後のこと。詞書や訳などの註釈を付けるのはもっと大変でした(この言葉足らずの「あとがき」も、活字にするのに数ヶ月かかりました)。

このようにして形になった「山川のための歌」が、とりあえず明日の命の心配がない人びとの耳に、世に無数にある音やことばの中のひとつとしてどのように聴こえるか、私には想像もできません。 

けれどもたった一人でいい、この歌が誰かの微笑みを誘うことがあったなら、私も苦労した甲斐があったというものです。そうしてそのささやかな波が、歌という梢から、その根っこにある「言ふべきかたなき」自然(せかい)へと広がってゆくなら、これに勝る幸いはありません。